「ぐずらちゃん」 「がんこちゃん」 「虫愛ずる姫君」
父母からそんなあだ名をつけられていた子ども時代。

腰が重たくてのんびり
自分の考えにこだわり臨機応変になるまでに時間が要る
虫や生き物や自然が大好き

今もその特性が私の大きな部分を占めているように思います。

父の赴任先、三重県四日市で産まれました。
4つ上と1つ上の兄がいて、末っ子女の子なので、
さぞや祝福され可愛がられて育った、と思われることが多いです。
ところが、
自分の母との確執を抱えたまま大人になった
いわゆるアダルトチルドレンな父は、
面差しが自分の母と似ている私を
受け入れ愛することが難しい人でした。

そして、
そんな父を見倣ってなのか、
単に私が可愛くない性格だからなのか、
いつも兄に虐められたと記憶しています。
大人になって視点が広がった今は
兄が当たり前に盾になって妹を守ってくれていたことに気がつき、
当時の父の苦しみも多少は理解し、感謝しています。

幼いながらもそんな空気を感じ取って育った私は、
父が海外出張の時に、
「お土産は何がよい?」と聞いてくると、
なぜか「ソーセージと輪ゴム」と答える幼児でした。

「自分は女の子であってはならない」
「自分はいない方が良いのではないか」
とうっすらと感じていたのか
男の子になりたかったのです。
ソーセージを自分に輪ゴムでくっつければ
(なぜ輪ゴムなのか、どうやってつけるのかはわからないですが…)
おちんちんができて、男の子になれると思っていたんです。

そんな父とは対照的に、
「子どもに自分のマイナスな価値観を植えつけたくない」
そう思って精一杯の愛情を伝えてくれる母も、
封建制度のような強権的な父の元では
「いかに父の機嫌を損ねないか」
ということに重きを置いて生活をしていました。

3歳になる前に父母が元々住んでいた鎌倉に引っ越しました。
父だけ半年程度、単身で四日市。
その時の母子だけの生活がのびのびとしていたのでしょう。
父が帰ってくると知った日の、
お先真っ暗的なザラザラとした気持ちが、
今も鮮明に残っています。

そんな家庭環境なので、愛情豊かな母と居ることが大好きでした。
昔ながらの折り目正しくきちんとした人、厳しい人ではあったのですが
本当に大切なことは何かを、よく知っている人のように思います。

貧しい家庭だったので洋服や机などは殆どがお下がりでした。
クリスマスにもお誕生日にもプレゼントはありません。
車なし、エアコンなしの家、テレビは幼稚園頃にようやく。
旅行などは、夏のキャンプと保養所のある箱根だけ。
私が産まれた時代より15年ほど昔の質素な生活でしょうか。

しかし、
食べること、寝ること、下着や靴、文化などの
人からは見えないけれど、身体をつくったり支えてくれることには
しっかりと心地良いものを整えてくれていました。

食卓にはいつも旬の食材がならび、
野菜は鎌倉の農家が直接販売している連売所や有機農法の農家から。
お肉や卵、牛乳もなるべく安心安全の本物を。
調味料も天然醸造のものを選び、
梅干しや梅シロップ、らっきょ、お漬物、
ケーキにアイスにクッキー
手作りが当たり前でした。

母の傍でお手伝いをする時間が何とも幸せでした。
晴れればいつでもお布団を干し、
お日様の匂いがするふんわりした布団で寝ることが楽しみでした。

日本の伝統行事を毎月のようにしてくれました。
例えば、立派なお雛さまはなかったけれど、
小さな雛飾りはいくつかあって、
桃や菜の花を飾り、必ずちらし寿司とハマグリのお吸い物で祝ってくれる。
お月見には9月の十五夜も、10月の十六夜も
お三方に、手作りのお団子を山盛りに
近所の藪から頂戴したススキと季節の花、栗や芋のお供えをする。
行事は美味しい食べ物と、季節の草花とセットで記憶されています。
実際はかなり貧しい家庭だったはずなのですが、
五感を満たす豊かで幸せな記憶がたくさんです。

母は戦時中に産まれ、辛い思いをして育ってきた人なので
子どもの頃から植物と過ごす時間が、何よりの心安らぐひと時だったそうです。
だから、いつも庭や、家の前の路地に季節の花々を育て
野菜を育て、春には近所の野原に山菜摘みに行き、
私はいつもその傍らで、手伝ったり、おままごとをして過ごしていました。

庭の山椒の木に産み付けられた、アゲハの幼虫を
「鳥に食べられては可哀想!」と何匹も集めて育て上げたり、
ダンゴムシをバケツいっぱい集めたり、
蜘蛛の巣に引っかかった、オニヤンマやスズメバチを逃がしてやったり、
蟻の行列をどこまでも追いかけて行ったり。
身の回りにいる虫を愛していました。
ある日アゲハのさなぎに穴が開いて、
寄生していた蜂が出てきて泣いたこともありました。
私が自然を好きになったのは
この母の影響なんだなぁと嬉しくありがたく思います。

自然を愛する気持ちから、
小学1年生頃に見た、環境破壊をテーマにしたNHK特集に心が痛み、

「人間のせいで地上の生き物が死んでしまう」と涙し、
環境破壊を食い止める科学者になりたいと
私の理系へ進む芽が顔を出しました。
鎌倉の海と山の豊かな自然の中で育ったおかげで
常に驚きと発見と感動に満ち溢れていたことや、
父親がエンジニアで論理的思考の会話ばかりだったことも
理系志向に大きく影響しています。

小学生の頃は図工や家庭科などの課題提出が遅く
母はいつも個人面談でそのことを指摘されたそうです。
「とても丁寧で、出来栄えがよいのに提出が遅いと評価も下がる。
 もう少し何とかはやくできないものか?」と。
ありがたいことに母は
「そうですか。そういうテンポの子なんです。
 なかなか着手できないその時間も含めて、
 完成に至るんだと思います。」
で済ませ、私を怒ることはありませんでした。

「ぐずらちゃん」の私は、
こうして周りに何となく許され、受け入れられ、
ギリギリの所で何とかする経験を42年間積み増さね、
未だに「ぐずらちゃん」なのです。
こういう私を受け入れてくださる、周りの方々に感謝です。

一方、父はいつも英字新聞や英語の文献を読んでいたり、
ジャズやラテン音楽を聴いたり、
貧しいのに上質な靴やワイシャツを着ていたり
子どもの目から見てもインテリでスノッブな印象の人でした。

理想が高い人で、子どもにもその理想を当てはめます。
テストは100点をとれて当たり前。
98点だと「なぜ2点足りないんだ?」的感覚の人です。
家庭平和のために兄弟3人とも
否応無しに良い成績をとるしかありませんでした。
父を思い出すたびに、追い詰められるような気持ちになりますが、
そのプレッシャーのお陰で、知らず知らずに勉強したり
高い理想を掲げて努力することが身についたとも思います。

ストレスだったのか、小学生時代の楽しい記憶
些細なことの記憶がほとんどありません。
思い出せるのは「嫌だった、辛かった」人間関係の記憶ばかり。
どの学年でもリーダー格の女の子に、いじめられていました。
今思うと、はっきりとものを言いすぎる所があるのが災いしたのかなぁ。
自分の思ったことをぽろっと言ってしまうし、
そのことに悪気がないどころか、「自分の感覚が絶対だ」みたいな
偉そうな感じの悪さがあったのだと思います。

母に聞くと幼稚園の頃から発揮していたらしく
途中入園した幼稚園の主任の先生に
子ども心に差別感みたいなのを感じ取って、
「○○先生、嫌い!」って言ってしまうような子でした。
しかも、たしなめられても意見を曲げず、「がんこちゃん」。
今も、このがんこな自分を持て余す時があります。

中学時代は美術部に入りました。
日当たりのよい美術室で、友達とおしゃべりするひと時、
鎌倉由比ガ浜で開催の砂像コンテストに参加して
みんなで大船観音を作ったり、
今は懐かしのセル画(アニメはデジタルの前はセル画でした)を書いたり。
のんびりした雰囲気が性にあっていました。

小1から習っていたピアノは受験を機に中3でやめ
両親や兄が通った高校を目指しました。
不思議ですね!
実力を顧みず、その高校以外を考えたことがなかったんです。
たいして勉強していなかったので、担任や母に相当心配をかけました。